2012年7月11日〜 正賢 記
無量光院は白河天皇の第四王子覚法親王(1092-1153)の創建です。
中興の印融大徳(1453〜1519)は学徳高く、その弟子覚融法印(1472〜1555)、清胤法印(1521〜1600)と才器豊かな名僧を輩出しました。戦国時代、越後太守上杉謙信候(1530-1578)は清胤(セイイン)師のもと伝法潅頂に入壇、密教の阿闍梨権大僧都の位階を得ています。
無量光院に併設する悉地院は観賢僧正(854-925)の創建と伝えられます。
戦国時代、織田信長侯(1534-1582)の護持僧であった堯海盛存房(〜1583年)が当院住職に就任、信長侯に従軍し、織田家家臣団である浅野・池田・伊藤・毛利・丹羽・福島各候の帰依を受けました。
元禄年間には『忠臣蔵』で有名な赤穂藩(芸州浅野家の分家)大石良雄(内蔵助)が、切腹した主君浅野内匠頭長矩公の回向をつとめ、その後に討ち入りを果たしています。
明治以降も、広島藩主浅野長勲侯(1842〜1937)、不平等条約改正に奔走した外務大臣陸奥宗光侯(1844-1897年)らが無量光院に逗留しています。
この様な関係から、当院と上杉家、浅野家、織田家、また有栖川旧宮家との檀契が今日もなお続いています。
近年では、他宗教との交流を積極的に推進しています。ローマ教皇ヨハネ=パウロ2世(1920〜2005)時代には毎年バチカンを訪問、仏教とキリスト教との対話をうながす一方、世界中から密教修行者を受け入れ、既に十数カ国に弟子を育成しています。
密教の国際布教も積極的に行っています。2009年には無量光院台湾別院が台北に設けられ、マレーシアや香港などアジアへの布教活動の拠点となっています。中国との交流も盛んで、弘法大師が学ばれた西安の青龍寺や大興善寺との深いつながりはもとより、中国仏教界との交流も盛んです。また2004年には、二階俊博衆議院議員のご案内のもと、王毅中国全権大使も当院に宿泊されました。
一方で、国際的な社会活動にも注力しています。当院のスイス人僧侶が仏教国ラオスで学校建設支援に長年従事し、2008年に木材とレンガの平屋建て校舎2棟が完成しました。現在は五つの教室で12〜19歳の約1200人の生徒が学んでいます。しかし教室がまだ不足しており、更なる拡充に向けて尽力しているところです。ラオスの生徒たちは貧しい農家の出身者が多く、見習い僧として托鉢で食を得ながらの生活です。彼らが十分な教育を受け、ラオスの発展に貢献できる日を夢見て活動を続けています。